「バッシング」

c0042941_1010309.jpg「バッシング」 (82分)       2005年
カンヌ国際映画祭コンペティション部門公式参加作品
東京フィルメックスコンペティション部門最優秀作品賞

監督 小林政広 (「フリック」「歩く、人」)
出演 占部房子 田中隆三 加藤隆之 本田菊次郎 
    板橋和士 香川照之 大塚寧々

公式HP http://www.bashing.jp/
【 『バッシング』は、04年にイラクで起こった日本人人質事件をヒントに、帰国した女性が周囲からの激しい批判を浴びながらも、自らの意思で再び中東へ向かうまでの葛藤の日々を静かに映し出していく。それは、リアルかつリリカルに綴られたひとりの女性の“旅立ち”の物語である。】


☆プレミア上映 (ゲストミニライブ&映画上映&サイン会)
日時 2006年6月2日(金) 開場18:30  開演19:00
料金 前売り 大人¥1,400 (当日¥1,700) 各プレイガイド、ローソンチケット
    学生(小・中・高) ¥1,000(当日のみ)
場所 苫小牧市民会館大ホール 苫小牧市旭町3丁目2番2号

☆劇場公開
日時 6月3日(土)~23日(金)
    *詳しい上映スケジュールは「シネマ・トーラス」に直接お問い合わせ下さい
場所 シネマ・トーラス  苫小牧市本町2-1-11 (中央ボウル1F)
    Tel 0144-37-8182






 彼女は本当に「異物」なのか          阿部嘉昭(評論家)

 04年、イラクを舞台に起こった日本人人質事件をモデルにしたこの『バッシング』が社会派映画に属するのは当然だ。だが作品には社会性が不足しているのではないか――最初そうおもった。善悪の区分が複雑化した現在、多様な角度から複数の問いを発し、一元的な回答を観客に導かない配慮が、社会派映画には必要。ところが本作では解放された人質に向けられた他者(家人を除く)の反応が拒絶感一色だし、小林政広監督自身も、ヒロインへの観客の印象をより複雑にする、事件のTV報道の描写を禁欲してしまっている。だから作品がヒロイン有子(占部房子)への違和感しか導かない――そう捉えた。

 整理しておこう。国が保証した「非戦闘地域」でボランティアに励んだ日本人がイラクのテロリスト集団に拉致されたとき、最初だけ「人命尊重」の世論が走った。以後は「自己責任」論に反転する。幼稚な世界認識によって迷惑をかけた者の身代金を「我々の税金」でまかなう必要はない――人質は自ら死ぬ責任を負えと。この「自己責任」がネオリベラリズムの用語だという点に注意しよう。世界を支配するアメリカイズムの一端がネオリベラリズムだった。「小さな政府」は国民のセキュリティのみを守る。国民は幸福も利益も自由に――ただし自分の責任内で、追求してよい。この「セキュリティのみ」という限定が実は厄介で、これがやがて「異物」の発見ゲームを導く。当時の「自己責任」論は一面でそれを機会的・遊戯的に展開したにすぎなかった。この作品はこうした危険な世相変化に対しても態度を鮮明にしていない。 

 ところが観終えて鮮烈に迫る何かがある。占部の存在感が作品を振り返るごとに増してくる。しかも小林監督が社会性を見事に盛りえたという逆の感想ももたげてくる。その印象変化の最初のきっかけが、占部がコンビニ店員に「つゆたっぷり」「具材ごとに分けて」盛ってと要請したおでんを考えたことだった。店員や、つゆが不足し他の客にも迷惑をかけるかもしれない点で、あの注文法は明らかに配慮を欠く。眼前の世界への配慮を欠くボランティアはいくらイラクで歓迎されようと独善のそしりを受ける。この点に作品が確信的だった。店員からおでんの販売を「父殺し」を理由に拒否されたとき占部は代わりにマクドナルドの商品を買って帰る。「親イラク」の足元が崩れている。彼女は「自己の運用」を間違えているのだ。そう捉えると、嗚咽・笑みが正しいタイミングからズレたり、誤用されたりする彼女の魯鈍さ・痛ましさにも別の感慨が湧く。監督は彼女が「本当に異物なのか」を問いかけている。失敗ばかりの人生、自分の有用性を唯一確認できるボランティアへの情熱。そこに賭けるしかない彼女を社会的に――同時に「女として」見つめる視線が一貫していた(しかもヒロインは最後に正しい嗚咽と笑みを通じ表情回復までする)。これは観客の他者洞察自体を問う厳格な作品だった。それに応えた占部の演技、その静かな持続感と集中もまた、見事極まりなかった。

 瀬々敬久や佐野和宏作品での活躍で知られるカメラマン斉藤幸一と小林監督との緊密な協働態勢が、作品の厳しさには必須だった。対象の動きに感応しつつ、非人称の位置から生成的に視界を開いてゆく斉藤のカメラ。それが編集・金子尚樹の刻む呼吸と相俟って、苫小牧近郊(とくに団地)の荒涼とした質感を、霊的な高みにまで定着してゆく。ヒロインの父役・田中隆三の自死を予告するくだり。ヒロインが帰宅すると父は不在だった。窓辺のカーテンだけが微風に揺れている。彼女が窓を閉めるとき斉藤はベランダから部屋に向けカメラを構える。閉められるに従い、窓に海が映る。一呼吸置き、斉藤のカメラは海側にゆっくりパンする。荒々しい波が打つテトラポッド。そうして父の自殺が暗示された。

 自死の痕跡として揺れるカーテンは『やさしい女』の引用ではないか。ロベール・ブレッソンがドミニク・サンダの無表情の謎を追ったように、小林監督も占部房子の表情のズレの悲哀を追った。そうしてカッティングの質はちがうが『やさしい女』同様の峻厳に達した。そういえば小林監督はサトウトシキ作品の脚本から自らの監督作まで、自分の映画狂の資質の処理に苦慮してきたとおもう。「ジャンル映画」「映画であることを自己言及する映画」「数学的な遊戯映画」「演劇的な重さをもつ映画」――。従来作のジグザグの川筋は、この作品で一つの海に注ぐ。現れたのは「飲み込むには辛い」「だからこそ飲み込むべき」他者の姿だ。最初に海が出現したときは衝撃が走るが、冒頭の黒画面で流れていた海鳴りの音も、イラクにあふれていただろう戦闘音を想わせた。ヒロインの存在が記憶につよく迫るように――ヒロインの団地が海風で腐蝕されているように――作品自体もまた観客に対し侵食的であること。こうした作品の「立ち方」、その迫力が素晴らしかった。


<のらの感想>
私は主人公・有子が嫌いだ。頑固そうな表情、他人に対する配慮に欠けた言動。なんとか共感できる部分を見つけ出そうと努力しながら映画を観る。・・・やっぱり共感できない。友達にはなれないタイプだ・・・。でも自分達と異質だからといって排除していいのか?観終わった後もなんともすっきりしない複雑な気持ちにとらわれ続ける。良くも悪くも心を動かされる作品であることは間違いない。(あくまでも劇中の主人公に対する感想であり、モデルとなった方とは関係ありません。)

<色んな方の感想を読む>
http://blog.kansai.com/D41/269
http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/FEATURES/2006/20060102bashing.htm
http://www.blog-headline.jp/archives/2005/05/post_458.html
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by nora426 | 2006-05-25 12:00 | 洋画・邦画